3月11日、東京経堂に住む息子一家を訪問しましたが
着いて30分後、東北関東大地震に遭遇しました。
経験したことのない揺れが5分程も続き
家が崩壊するのではないかという程の恐怖を味わいました。
その後の被災の状況は想像を絶する大きさで
溜まっていたエネルギーの大きさ、破壊力に
ただただため息が出るだけです。
自然の猛威の前には人間の生活、一生などは木の葉のようなもの
誠にはかないものと身にしみました。
与えられた一瞬一瞬を大切に生きるほかありません。
原発頼りの文明も危うく儚いものということもわかりました。
被災者の皆さん、つらいでしょうががんばってください。
私達も出来る限りの支援をさせて頂きます。
手作りオーダー家具の林工亘
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東京だったのでそれほどでは無かったのでしょうが、宮城県のように震度が7にもなると、想像すらできない事でしょうね。
事あるごとに日本の原発は幾重にも安全対策が講じてあるから大丈夫・・・と言って来ましたが、緊急停止は出来ましたがその後の完全停止が出来ず、危険度はどんどん増すばかりです。
スリーマイル島はおろか、チェルノブイリにも匹敵するレベル7に近づいています。
原発の安全性は神話でしか無かったのですね!
突然でびっくりされたことと思います。
その後も影響など大変でしたね。
>与えられた一瞬一瞬を大切に生きるほかありません。
本当に同感です。
その日は私も帰宅難民となり神田の職場から草加市の自宅まで歩いて帰りました。20km余り、4時間ちょっとで帰りつきました。
被災地の状況を見るにつけ義援金のほかに何か手伝えることはないものかなどと考えていたところ、仙台市に住む知人より突然我が家に電話があり「子ども3人を暫くの間預かって欲しい」と言われ、この申し出を喜んで受け入れました。
我が家の2人の息子は巣立っているため、その空いた部屋に15日より入ってもらいました。
この知人(北京駐在時代に私の家内が知り合った方)の家(一軒家)は倒壊はしていないものの家の中が壊滅、ライフラインは全て復旧見込みが分からないまま、毎朝近くの学校や避難所めぐりをして配給情報や給水情報を収集していたがなかなか水・食料にありつけない状況だったとのこと。
被災後、突然、家の中に使わなくなった古いタイプの電話機(黒電話)があることを思い出し、瓦礫・ガラクタの中から探し出し、ジャックを差し込んだところつながったので早速我が家に電話をしてきて、「OK」の返事をもらうや山形空港に車で向かった由。
一便しかない羽田行きには500名近くがキャンセル待ちをしており絶望的だったため、三便ある大阪行きのキャンセル待ちに並び何とか3人(一人は成人)を大阪行きに乗せた。3人は大阪で一泊したのち、新幹線で上京し、上野駅で私がピックアップして草加市の我が家に連れてきたという次第です。
急ににぎやかな生活となっています。
電気を使わない古いタイプの電話機が災害には強いということを学びました。